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ニューヨーク、二日目。
アーミッシュ・マーケットでコーヒーを買ってMoMAへ。マティスのエキシビジョンをひととおり、階下へおりてゴーギャン、ダリ、ゴッホ、ピカソ。信じられない。ちかくでみるときわだってその愛らしさにうたれるクリムト。ああ! この絵をみるためにここに来たのだったと何度でも思う。いたましさと勇敢さを金色の額にいれたようなカーロ。モネの夢みたいな美しさ。
ウォーホルのマリリン・モンローにさよならを言い、列がたえないとうわさのフード・ベンダーでチキン・プラッターを買って地下鉄に乗る。カメラのバッテリーを気にしながらグリニッジ・ヴィレッジに向かう。
通りの一角ではクリスマス・ツリーが売られている。ショウ・ウインドウにはラメの星とトナカイとあかいリボンのギフト・ボックス。つめたい風は針葉樹のにおいがする。クリスマスまではあとすこし。
歴史ある薬局でハンド・クリームをためして、パフューマリーとレタープレスをのぞく。キャリー・ブラッドショーのアパートメントの前を通って、マグノリア・ベーカリーでカップケーキ。恥ずかしいほどおきまりの、でもはずせないアドレス。
六番街を北へ歩いて、ヴィンテージ・ジュエリーと食器と本とユニオンスクエアガーデンのクリスマス・マーケットを見にいく。トロントとも東京ともちがう。でも都会。ニューヨークだけが特別とは思わないけど、五番街の角をまがって信号機の向こうに大きなツリーをみつけたときは泣いてしまいそうだった。だってニューヨーク、ニューヨーク。
ニューヨーク、一日目。
真冬の薄い雲のかかった青空、ハイウェイの向こうの魔天楼、トロントよりはせまい道幅、途切れなく建ちならぶブラウンストーン。
地下鉄の入口は見過ごすほどで、階段をおりると危ない、都会の、匂いがする。タイルづくりの駅名表示は駅ごとに色が違っていて、地下鉄はすごくゆれる。線路にカメラのレンズキャップを落とした。うかれていたために。
ダンキン・ドーナツのホット・チョコレートはソルテッド・キャラメルがいちばん好き。街角ごとにオレンジとピンクのロゴ・マークをみつけては寒さをいいわけに買ってしまう。
あこがれのブルックリン・フリーはクリスマス・オーナメントとファーとローカル・アートとヴィンテージ家具、おしゃれな、おしゃれな、おしゃれなものと、おしゃれなひとたちであふれていて、帰りのバスのなかでとけてしまうとわかっていても、魔法のかかった何かを買って帰りたいと思う。
そうニューヨークには、わたしが着ているものとあなたが着ているもの、いまここで取り替えてほしいと思うようなひとがたくさんいて、でもそれは反則だから声はかけない(もちろんそんなことはできない)。
おしゃれは、うわべだけのものだと思うひともいるようだけど、そうじゃないことを知っている。インテリジェンス。愛して、楽しむ気持ち。悪夢のようなできごとが人生では起こってしまうけど、そういうときはすてきな服を着て乗り越える。
地下鉄の線路図をなぞりながら次の目的地、ダンボへ。ブルックリン・ブリッジとウィリアムズバーグ・ブリッジは見分けもつかないし調べもしなかったけど、まだネオンがつく前のおそい夕方のマンハッタンと太陽の明るさの残る水辺は美しく、風よけにかこわれた回転木馬はかわいらしくて、十二月のウエディング・ドレスは都会的で、映画の撮影みたいだった。
九時を過ぎた夕食にラム肉のピタ・サンドイッチ。スパイシーなマヨネーズをつけてたべるフレンチフライはモントリオールのプティーンの三倍はおいしかった。ジャンクフードではだれもアメリカに勝てない。
旅行中はいつまでも起きていたくなって困る。
母なる河、ガンガーで沐浴すればすべての罪は洗いきよめられ、遺灰を流せば輪廻から解脱できるといわれている。モンスーンの雨で水かさが増して、流れははやく、風はつめたかった。ものすごい数のひと。牛とやぎ。物乞いの視線と手。それをこわいと思ってしまうこと。ちいさなこども。貧困とイノセント。かわいそうとか不憫だとか思うものさしはいらなくて、だからといってほかに役に立ちそうなものも持っておらず、ヒンズーの文化と言い切ることもできず、ほんとうにこんなにわからないことなんてほかにはないんじゃないかと思うくらいわからなかった。ことばも見つからない。
インドのひとびとは、一概には言えないかもしれないけれどすくなくとも、わたしによくしてくれたり、話しかけてくれたり、すれちがったり、寝台列車の同室に乗り合わせたりしたひとたちは、親切でやさしく、笑顔がほんとうにほんとうにほんとうに愛らしかった。なんて表現してよいのかわからないけど、愛らしい、が近いと思う。
これは、帰りの、雷でなかなか地上に下りられなかった飛行機の(いろいろあって成田から大阪まで国内線に乗ったのでした)中で考えたことなんだけど、日本のサービス水準はすばらしく、フライトアテンダントは美しく、こまやかな気配りと思いやりにあふれ、雷だろうと大雨だろうとたしかに快適なフライトを提供してくれました。それは日本のよいところだと思うし、誇らしいところだとも思う。お手本のような心配り。その完璧さ。でもそのことへの反発心がなんとなくあるような気がする。わたしの気持ちのなかに。
列車が遅れたため、予定を大幅に遅れて駅に到着。ずっとここへ来たかった。ガンジス河の街、バラナシ。
通りは、ひとと牛とやぎと車とバイクとリクシャーがあふれ、風は砂埃にかすんでいる。すこし歩くだけでも溺れるほど汗をかく。
時間がないから到着後すぐ、ブッダが悟りをひらき、最初に説法をした場所、サールナートへ。バラナシ市街からは車で約一時間ほど、でこぼこの道と荒っぽい運転のおかげで退屈しない。車の窓から街をながめているのはたのしいし、サールナートへ近づくにつれ、風景がそっけないほど素朴になっていくのもおもしろい。あらゆるいきものが溢れすぎてる市街地と、ひっそりとしている郊外。インドはほんとうにほんとうに広い。
遺跡のあいだを縫ってひととおり歩き回ったあとは博物館を見学。ここに、ぜひお会いしたかった神様がいた。
チャームンダー。死の女神といわれ、それはおそろしい姿をしている。しぼんで垂れさがった乳、痩せ細ったからだ。肌は病み、蠍の毒におかされ、首には生首を飾っている。この世のあらゆる苦しみを背負い、バンヤン樹の下、死骸の上で躍る。
世界は美しいものだけじゃないから、苦しみをだれかが引き受けないといけないのかもしれない。それなら愛や幸福をつかさどる神様だけを崇拝するわけにはいかない。
チャームンダーはしぼんだ乳で人々に乳を与える。ほんとうの苦しみを知る彼女にしか、慰められない傷があると思う。
相反するふたつのものが混ざり合ってる。病と癒し、生命と死、どちらか片方が欠けても、世界は調和をなくしてしまう。なかったことにはできないし、見ないわけにはいかない。
学生のころに遠藤周作の『深い河』を読んで以来、チャームンダーがずっと好きだった。遠すぎてこの旅ではとても行かれないけれど、チャームンダーをまつる寺院があると教えてもらった。いつかかならず訪ねてみたい。